体験談 中山尚「3.ひかりの輪設立から哲学教室になるまで」

体験談 中山尚「2.分裂騒動からアレフ脱会へ」

 

2007年の6月にひかりの輪は設立されました。「去るものは追わず、来るものは拒まず、そんな『お寺』のような団体にしたい。」などと上祐氏も夢を語っていたし、スタッフもかなりの情熱を注ぎ込んでいたと思います。教義は一元思想と言って、今の三悟心経の元になるような教義を説いていたのですが、体質はオウムのまま温存していたのであらゆるところに綻びが生じていきました。オウム時代では教義的にも「マハームドラー」は通用しても、ひかりの輪では万物感謝なのですから、上祐氏などのパワハラが通用する訳ではありません。次から次へとスタッフは消えていきました(辞めていった人、逃げていった人、追い出された人 http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12195214730.html)。

アレフの時に比べてスタッフの人数は少なくなりましたから、必然的に業務は増えます。当時はまだまだ熱心な会員でもありましたので、大阪支部長からの愚痴などを聞いてもいました。これだけの激務をしているのであれば、スタッフは新規獲得に集中して、会員は会員で結びつきを強くして互いに支えあうような関係性をもって行かねばならないなどと、積極的に横に声をかけていきました。これが私が団体に対して大いに疑問を持ち始める転機となっていきました。

今まで法友として、奉仕活動など頑張っている人達ばかりだと考えていた能天気な私でしたが、団体との関係において非常に深刻な悩みを抱えている人達ばっかりだったのです。一番、ショッキングだったのは団体から公安の立ち入り検査で見られては困るという理由で書類を持たされていた人がいたことです(立ち入り検査と検査忌避 http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12191009010.html)。これには本当に驚きました。社会融和を全面に掲げて設立した団体がアレフと同じことをしているのですから。透明性を確保し裏表のない運営をしていくことによってでしか、社会からの不信感を和らげることはできないと考えていたからです。

他にも色々な面が見えてきました。上述した、家を売って団体に高額のお布施をした人も裏では愚痴を言っていることも多く、決して喜んで差し出した訳でもないということも見えてきました。かつては本当にセミナーは高額でしたので、収入の少ない人達は必死で団体を支えていたのですが、収入は団体に把握されていて「これには参加できるよね?これは受けられるよね?」などと勧誘され断れない人達も多数存在していたということです。

私は、YES、NOはハッキリと言える方だったので、そんなに無理強いされるという記憶はありませんでしたが、私のような人達ばかりであるはずもなく、気の弱い人達などは断りきれない人もいましたし、また会員は参加して当然だという雰囲気の中でかなり無理している人達がいました。また横との繋がりの中でも、少しでも団体に対する愚痴など言おうものなら、すぐに支部長に上げられるという密告社会でもありました。それだけに団体に対する批判や不満が外に出てくることは少なかったのです。

そんな現状を見聞きしていくうちに、会員の声無き声をすくい上げて行かねばならないなどと考えるようになり、積極的に団体批判に取り組んでいくようになっていきました。内部からの改革、自浄能力を身につけること無しに、「21世紀の宗教」どころか、オウムのままのカルトでしかないと思うようにもなってきました。私のスタンスとしては「団体に貢献もするが、物申すこともしっかりとしていく。」という姿勢は取ってきたように思います。団体にとって目障りな存在にあえて身を置いていきました。居心地はかつてのように良いものではありませんでしたが、ある程度の緊張関係で私と団体は距離を持ちつつやってきましたが、辞める数年前には団体の活動にはかなりの惰性になってきてもいました。「17年目の告白」を出してからマスコミなどにも出だし、文化人などもひかりの輪を認めるような発言をしたりもしていましたが、どこかで冷めてみていました。表面上だけを繕って団体の体質は全く変わっているようには思えなかったからです。

 

体験談 中山尚「4.脱会から出入り禁止へ」