体験談 中山尚「2.分裂騒動からアレフ脱会へ」

体験談 中山尚「1.入信から分裂騒動まで」

私のやる気に火がついたのは、主流派と上祐派の分裂騒ぎがあった時からでした。私が上祐派の存在を知り、教団に分裂騒動が起きていると知ったのは、当時の主流派の幹部
から、マイトレーヤ正大師が魔境状態になって、それに感化された人達が勧誘を始めているので、電話などで連絡が入った場合は絶対に出てはいけないからね、などと言われ
たのが始まりでした。

当時は状況が全くつかめずに、何故そのようなことを末端の信徒まで下ろしてくるのかすら不思議でした。そんな大した問題であろうとは考えてもいなかったのです。

確か2005年の秋、大阪支部道場の上祐派における乗っ取り工作が行われました。その時から主流派と上祐派の争いに私は巻き込まれるようになりました。上祐派から大阪
支部道場でマイトレーヤ正大師の勉強会があると聞いたときには、分裂騒動も収まったのだななんて考えてもいたのです。ところが行ってみると、主流派のスタッフがインタ
ホーンに出てきて追い返され、再び家に帰った頃に上祐派から「何時ごろに勉強会に来られますか?」などと言われて、かなり憤慨して結局参加はしませんでした。

その後、その顛末を知らせるとして主流派の方から連絡が入り、大阪駅の近辺で車を止め、そこで師の方から事の顛末の説明を受けました。上祐が暴言を吐いて師の人を罵っていたことなどを教えられたのです。嘘だとは思わなかったが、意図的に上祐を貶めるような物言いに腹が立ち、とことん反発していきました。(大阪秋の陣http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12193659880.html

「我々はずっと世間からは殺人集団扱いされてきた。その我々がよりによって法友を捉まえて魔境扱いするとは一体どういうことか。」などと食ってかかりました。「マスコミだけの情報が信用できないからこそ、私はオウムに入信した。あなた方の言うことだけを信じて客観的な判断などできない。」などと訴えたように思います。「誘われたら行きますよ。」とも断言もしました。その時は上祐派が魅力的というよりは、主流派のやり方に疑問をもっていったという方が正確であったと思います。

その後再び上祐派からの誘いを受け、外で面談を数回繰り返した後に、上祐氏の勉強会に参加しました。どんな内容であったのかは覚えていませんが、やはりそれまでの正悟師の歌を歌うだけの説法よりかは格段にレベルが高くて感動もしました。私の入信のきっかけは事件でしたので、何よりも事件を正面から見据えて、社会融和していこうとする姿勢に魅力を感じ、当然のごとくに上祐派の流れに入っていったのです。

アレフ上祐派の時は本当に私も優等生であったように思います。大阪支部長からも良くして頂けましたし、それに応えるがごとく私もできるだけのことはしてきたように思います。当時は私も家庭問題や経済問題など抱えており本当に辛い時期でもありましたが、心の劇的な変化も体験して、その体験を上祐派の流れに入ったことと結びつけて一層嵌りこんだという感じです。

組織としての矛盾は沢山当時から抱えてましたが、そこにはあまり目を向けませんでした。上祐氏が怒鳴っていても、大阪支部長が部下を人間扱いしていなくても、大変な時期だというのは理解もできていましたし、まだオウムの教義そのものでしたので「マハームドラー」の一言で納得もしていました。とある会員さんが家を売って かなりの高額のお布施をした時に立会人に頼まれましたが、その時もその老人さんの気持ちを考えるよりもそんな大役を頼まれたことに喜びを感じてもいました。今から思い起こしても慙愧の念に堪えません。

この頃は教学的にはオウム真理教の初期本などをやっていました。主流派との信者の獲得合戦も続いており、どちらが「グルの意思」に叶っているのかとか、麻原がどれほど上祐氏を信任していたのかなどと理論付けしては上祐派の正当性を訴えていました。「もし私が日本でのヴァジラヤーナ(金剛乗)に失敗した時には、お前は日本に戻ってマハーヤーナ(大乗)を広げろ。」といって麻原は上祐を守るために送ったのだと説明していました。結局は、麻原の権威を引き継ぐのはどっちなのかという問いで信者を獲得していったのです。そして主流派と決別することが決定的になると、二つのファウンデーションなどと言って「真理の灯明を守るために、主流派か上祐派とちらから潰れてもどちらかが残れば真理は守れる」と言ってアレフとの決別すると信者を導いてきたのです。

そして、2007年の3月に上祐派はアレフを脱会しました。脱会してからか、脱会する前くらいか記憶は定かではありませんが、その頃から観察処分がかかるような団体が二つできても仕方ない」などと言い出し。麻原の教材を強引に破棄するよう言ってきました。

ほんの数ヶ月前までは秘儀瞑想や教本は一生の宝物のように大切にするようにと言っていた元大阪支部長から、今度は教材を破棄してと言って来られるのですからとてもじゃないけど受け入れがたいものがありましたが、上祐氏の脱麻原路線には賛成していましたのでそれほどの摩擦になることはありませんでしたが、上祐氏は観察処分を外すために脱麻原路線をとるという選択をしただけであり、本当に反省してそのことから教訓を得て、そこから導き出される新たなる宗教を創造していくために、脱麻原路線を取ったのではなかったのだと私自身が認めるにはそこから長い年月が必要でした。

振り返るとまんまと上祐派の戦略に騙されたというのが正直な感想です。私の場合、事件後の入信なのでオウム・アレフに騙されたという実感はありません。どちらかといえば、上祐派、ひかりの輪に騙されたという実感の方が大きいのです。おそらくは団体側にも騙したという認識はないでしょう。事件を反省してオウムの教訓を活かして「21世紀の宗教」を創造するという謳い文句に私はすっかりと魅せられてしまいました。「宗教の失敗は宗教で乗り越える」などと、当時の上祐氏は謳っていました。ちょっとしたら、歴史的にも宗教は醜い争いを繰り広げてきましたが、オウムの教訓を活かすことによって、そのような争いに終止符を打つことができるかもしれない。そんな理想を思い描いてしまいました。「21世紀の宗教」という単なるスローガンですが、そのスローガンを信じることによって宗教になりえるのだと今となれば分かりますが、当時の私はすっぽりと嵌りこんでしまいました。

体験談 中山尚「3.ひかりの輪設立から哲学教室になるまで」