体験談 中山尚「1.入信から分裂騒動まで」

1995年の10月、オウム真理教大阪支部道場の前には多くの報道陣や警察官がいた。入りたくても勇気を出せずに何度も行き来をして、最後はやけくそ気味になって飛び込んでいったことが思い出されます。それが私とオウムとの初めての出会いでした。事件後の総ジャーナリズムに疑問を持ち、オウムをもっと知りたいと考えたのがきっかけで、入信するつもりも信仰するつもりも一切ありませんでした。オウムの機関紙が書店では自主規制により取り扱わなくなり、直接行かなければ購入もできなくなったから、オウムをもっと知るためには行かざるを得なくなったというのが本音です。
何度かサティアンショップに通っていると、「外から眺めていてもわかりませんよ。そろそろ入会しませんか。」などと勧められ、96年の3月に入信することとなりました。麻原はすでに捕まっており、もし証拠不十分で出てくることがあれば、すぐさま辞めようなどと考えてもいました。

入信した年に、長女が障害を持って生まれてきて、手術をするのに、もしもの時に献血してくれる人を探して欲しいと病院側から要請されたのですが、そのことを教団に近況報告をしたところ、「同じ血液型の人はいるのですが、ステージが下がってしまうので、娘さんを入信させるという条件でなら献血してもいいらしいです。」などと言われました。もちろんそんなことを教団に頼む気もなく、すぐさまお断りしましたが「宗教なんてやっぱりこんなものなんだろうな。」と怒るでもなく妙に納得してしてしまいました。今から思うと下手に頼んでいたりしたなら、「娘の命を教団が救ったのだ。」なんて宣伝に使われていて娘ともども嵌っていたかもしれません。

その後、オウム真理教は破産しアレフになるのですが、アレフ時代も私はどちらかというと幽霊会員に近い存在でした。つかず離れずで月に一、二度参加する程度であったように思います。もちろん毎日来道していた時期もありましたが、一時期のことでしたし、全体的にも趣味の範囲は超えていなかったように思います。元々、事件に関心があって入信したものの、入信したとて事件のことが分かる訳でもなく。かえって入信してからの方が事件のことを聞くのはタブーみたいな雰囲気もありました。「事件とかそんなこと気にするよりも、修行しましょう。」という感じででした。彼らにとっては事件のことは考えたところで実際に経験した訳でもないし、それゆえに答えが出るものでもありません。そんなことよりも日々修行に励んで、健康になり心を安定させ、来世に備えていくということの方がよっぽど意味あることだったのです。

教団の動きにもとりわけ関心があったわけではありませんでした。上祐さんが出所してくる時に団体規制法が出来ましたが、あれほどの事件を起こしたのですから仕方ないとも考えていましたし、アレフが無くなったとしても仕方ないことだとも考えていました。上祐さんが代表になり、被害者賠償の話が出てきた時に、おそらく初めて師の方と口論になった記憶に残っています。被害者賠償についての説明を受けた時に「麻原は最終解脱者で事件のことも全て分かった上で止めなかった。全ては必然的で必要なことだったのだ。」なんていう理由付けだったと記憶しております。私には「事件被害者は亡くなるべくして亡くなったのだ」とも聞こえたので、当時の大阪支部長に、被害者感情を逆なでる見解であるとして猛抗議したのでした。その時にその方が「中山さんは本当に被害者賠償した方がいいと思っているの?」なとど呆れた口調で言われたことがいまだに耳に残っています。「当然でしょ!」などと切り返していったのですが、教団としては本気で賠償する気など無く体裁だけを繕おうとしているのがハッキリと分かりました。

そんな疑問はあるつつも、上祐さんの改革路線には概ね賛成していてたし、元々、麻原に何の思い入れも無かったので「麻原隠し」にも何の疑問も感じていませんでした。まさか後々に分裂騒ぎに発展していくほどの火種を教団内部で抱えていたとは露知らず、教団が一致しての意見であったのだろうと考えていたのでした。だから上祐さんが軟禁状態になったことも全く知らずに「修行入り」と言う言葉を素直に受け入れてもいました。

教団の上層部が何を考えているかなど、末端の信者に伝わってくるはずも無く、出家と在家は全くの分断状態であったろうと思います。今のひかりの輪でもそうですが、在家や会員は単なる「お客さん」なのだろうと思いますし、私自身も「お客さん」の立場で良かったですし、出家の人達が何を考えていようと全く関心すらありませんでした。

そんな信仰心のない私が20年も、オウム・アレフ・ひかりの輪と渡って続いてきたのは自分でも本当に不思議でなりません。きっと居心地が良かったからだと思います。教団にとっては、在家は「お客さん」ですから、悩みごともそれなりに真剣に聞いてもらえますし、適当に綺麗事を言っていたら褒めてももらえましたし、自分の存在価値がそこに見出せていたのかもしれません。振り返るとすでにマインドコントロールはかかっていたのでしょうが、それなりに距離は保ってましたので、世間の目させ気にしなければ何の苦痛も感じていませんでした。かえって注目を浴びることでちょっとしたヒロイズムに浸っていたのかもしれません。今から思えば、あまりにも知識不足でしたし幼稚でもありました。今から省みて考えると、「彼らもそんなに悪い人間ではないだろう」という思い込みが私の判断を狂わせていたのかなとも思います。確かに今でも個々の人間はそんなに酷い人は見たことはありません。そんな人は道場活動できなかっただけかもしれませんが。でも、個々の人間を見つめるがばかりに集団となった時の狂気を観ることはできなかったように思います。そこにこそオウムの失敗は隠されていたと思うのですが、それをまざまざと見つめざるを得なくなったのは分裂が表面化しだしてからの事でした。

今のひかりの輪の参加者さんを見ていたら、当時の私のような心境なのだろうと思います。上層部のことは何もしらずに表面上だけで判断する。無邪気に団体を褒めまくっている姿を見たら、何気に虚しさを覚えて仕方がありません。私もアレフで終わっていたなら、きっと私のオウム生活はそんなに悪い経験ではなかったのかもしれません。

 

体験談 中山尚「2.分裂騒動からアレフ脱会へ」