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ひかりの輪の現状

■ひかりの輪の現状

ひかりの輪は、2014年12月の団体発表では専従会員(出家)17名、非専従会員(在家)97名、総計114名とされている。これはひかりの輪発足当時の専従会員56名、非専従会員106名。総計162名から年々減少していっている。ただし、最近では「一般の方でも学べます。」と宣伝しており、実際に毎回上祐の講話会や聖地巡りに参加していながらも会員にはならない「信者」は多数存在していると思われ、その正確な実数は掴みきれない。

団体資産の状況は、2016年の団体発表では799万8844円としており、これもまた発足当時の1637万2199円からはかなり減少している。収入は講話会や勉強会、聖地巡りなどの団体イベントが主な収入源で、その他にも法具やテキストなどの物品販売、信者からの寄付などがある。

団体規模はオウム真理教の主流派であるアレフに比べて小さいが、公安審査委員会はアレフと同様にオウム真理教の後継団体とし、「(1)麻原が現在も教団の活動に影響力を有していること,(2)地下鉄・松本両サリン事件に関与した者が現在も構成員であること,(3)同事件当時に教団の役員であった者が現在も役員であること,(4)麻原の説く殺人を勧める「綱領」を保持していること,(5)組織として危険な体質を保持していること,(6)閉鎖的かつ欺まん的な組織体質を維持していることなどを認定し」、観察処分は今現在も継続されている。

■ひかりの輪の問題点

観察処分を外す為に作った団体で、麻原の手法を真似つつ上祐が麻原に取って変わることで、観察処分逃れを志向している。

反省、総括を全面的に打ち出すことで、オウム、アレフとは違うという印象を与え、社会融和を図っているかのように世間を欺いている。アレフの場合と違ってオウムの後継団体という印象が弱く、SNSなどを使用した宣伝も巧みでオウムとは違うのだと若者などの取り込みを図っている。

分裂以前は麻原の権威と正大師という麻原に与えられた権力を利用して信者を集め、麻原の教えを残す為にアレフと離反した。

しかしながら、麻原の教材を使用している限りは観察処分は外れる事はないので、強引に教材破棄を進めていく。その一方で社会融和を掲げて「広末プロジェクト」と呼ばれる、公安調査庁に協力姿勢を打ち出すが、その実態は公安調査庁に都合の良い情報を流すことで情報操作を画策していく。

団体規制法の立入検査で見つかると都合の悪い書類や法具などは、立入検査が入らない在家信者に前もって預ける等の検査忌避を行っている。これはアレフ時代から行われていることで、「予め預けておくことは違法ではない。」と開き直る発言をいまだにしており、社会融和を進めて組織の透明性を高めていこうとする姿勢は全くなく、ますます欺瞞性を強めている。

また、前回の団体規制法、観察処分の更新の時期(2014年)にあわせて、公安調査庁に対して名誉毀損訴訟、観察処分の取り消し訴訟等を提訴しており、「広末プロジェクト」からの方向転換をして公安調査庁を敵視する路線へと変更しているとともに、再びヨガを中心としたオウム的修行を取り入れており、信者のマインドコントロールを強化していこうという動きも見られる。

一方、上祐自身はプライドが著しく強くワンマンな性格なので、攻撃的にスタッフに対して侮辱を加え、暴力的に支配していく傾向がある。自身に逆らう人間には長時間に及ぶ説教をして、相手が「はい」と言わない限り解放しない。したがってスタッフの多くは議論を避けるようになり、上祐には逆らえない体制となっている。

また会員等参加者への支配としては、面談や占いなどで個人情報を引き出し、それを悪用しては、個人情報を他の会員に流したり、批判を加える人間に対しては脅しに使ったりとして恐怖的支配も行っている。

土日、祝日、長期休暇の際などは講話会や聖地巡りなどのイベントを行っているが、平日には行事が無く、一部のスタッフは働きにも出ているが、オウム時代にクンダリニーヨーガの成就者であった部長クラスはのんびりとしており、経行(キンヒン)修行と称して散歩したり、面談と称して喫茶店で時間を潰したりとダラダラと時間を潰していたりする。

■ひかりの輪の「オウム性」

公安はかつて「大黒天」の前の姿が、オウムで信仰していたシバ神であるということから「大黒天」を問題視していた。またアレフ時代より上祐は「虹」を吉兆として重要視しており、それは「ひかりの輪」という名前の由来にもなっている。

修行方法もオウム時代から大きく変化している訳ではなく、シャクティーパットなどのイニシエーションはひかりの輪においても「金剛十字エンパワーメント」と呼び名を変えて形態などを変化させつつも基本的に同様の効果をねらった修行もしていた。ヨガや気功、瞑想、聖地巡礼などオウム時代からの修行体系を保持している。

ひかりの輪の組織は、オウムの位階制が色濃く残っていて、そのまま移行したと考えても良い。上祐が代表になったのもオウム時代に「正大師」であったからであり、現在の副部長は広末を除き全員が「師」の位であった。広末は名目上は副部長ではあるが、実態は他の部長クラスからは軽くあしらわれる傾向にあり、前述のように広末もアルバイトをしている。教義的には大きく変化させている部分も見受けられるが、オウムが事件を起こしたその大きな要因であったグル(上祐)への忠誠は維持されており、その体質は全くオウムとさほど変化していないと考えてよい。

よって、オウム時代と同様には批判者に対しては徹底的に好戦的な態度で接し、殊更に名誉毀損やプライバシーの侵害といっては恫喝している。最近では再び公安調査庁に対しても敵意をむき出しにしており反社会性を帯びつつある。一方で、都合よく利用できそうな有名人や宗教学者に近づき団体の宣伝に使用する手法もオウムと同じである。

今すぐにテロなどの無差別殺人を起こすとは考えられない反面、団体規制法の観察処分を受けながらも、欺瞞性や閉鎖性を温存していることを考えれば、観察処分が外れた場合には、より団体勢力を拡大させ、危険性が増すことは容易に推測できる。

■宗教ではないと自称

2012年頃より、ジャーナリストの田原総一郎氏と対談したことをきっかけに「宗教ではない」と自称し始める。団体の主張によると「特定の神仏を絶対視しない」という理由づけではあるが、信者には「修行しましょう。」などと勧誘したりしているし、実際に修行の四本柱として、「教学、功徳、行法、聖地」を強調している。また、「三悟心経」というお経も作成して読経も行っているし、オウムから続くヨーガや気功も主な修行の一つである。「修行」を行う「思想哲学教室」とは前代未聞であり、実態は「宗教」であり、オウム真理教を踏襲している団体である。

オウム真理教機関誌「マハーヤーナ 1987 No.5」に見る上祐と虹の関連

オウム真理教機関誌「マハーヤーナ 1987 No.5」の「巻末特集 今蘇った,救済者マイトレーヤ」という記事の中で上祐は、「オウムに入会して約一年。解脱にいたるまでの修行の日々を(中略)振り返って(p.110)」います。

神秘体験に関する部分を抜き出してみましょう。
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体験談 中山尚「4.脱会から出入り禁止へ」

体験談 中山尚「3.ひかりの輪設立から哲学教室になるまで」

 

有田氏に「脱皮しない蛇は死ぬ。」と言われたら、団体は「脱皮、脱皮」と連呼し、田原さんにひかりの輪は宗教じゃなく哲学だといわれたら、宗教ではなく哲学教室だと名乗りだし、祭壇もインテリアと言い換えたりして、その節操の無さに呆れるとともに「21世紀の宗教」に希望を抱いてきた私を絶望させるには十分でした。かなり激しく抗議しましたが、結局は上層部が決めたらそれを下に降ろしてくるだけの上意下達の体制、それは麻原が決めたなら絶対に従うというグルイズム方式でしかないということでもありました。麻原が上祐に取って代わっただけの団体でしかなかったのです。私が抗議した時に大阪支部長は言いました。「団体は指導する立場ですから。。」と。結局は、オウムの時と同じく上の命令は絶対であると言っているようなものでした。

「ひかりの輪は中山さんを中心に回っているんじゃない。」とも名古屋支部長からも言われるなど、すごい圧力がかかってきました。「少し距離をもってみよう。」そんな気持ちで私は脱会致しました。私は設立時からずっと考えていたことがあります。新しい団体はオウムのようなヒエラルキー構造を持った組織ではなく、もっと水平的で平等性を持った組織こそがアクエリアスの時代に相応しい形態であろうと考えてきました。上祐氏が中心にした広がりのある仲間の集まりこそが、オウムの反省から導き出された「ひかりの輪」としての在り方であろうとは考えていました。求めていた方向性が違っていたのかもしれませんが、頭を一度冷やす必要もあるのかなと考えてしまいました。今から思うと圧力に屈しただけでしたが(笑)。

団体は「会員でなくとも学べます。」などと言っていましたので、その後もしばらくは通い続けていましたが、情報漏えいの疑いと女性問題をやり玉にあげられ、出入り禁止となりました。「批判をするなら、外からオウマーのようにすればいいじゃないか。」などと遠まわしに言われた時もありました。常に辞めさせたがっているであろうということは感じていましたので、別に驚きもしませんでした。ただ、ひかりの輪が提唱する一元の思想から、どのようにしたら人を排除できる行動を取れるのかを本当に知りたかった。おそらくは、21世紀の思想であれ宗教であれ、ひかりの輪の思想でも、時と場合によっては人を排除できるとするのであれば、それではいつまで経っても争いが止むような思想ですらありえないでしょう。

やっぱり、観察処分を外したいだけの団体であったのだろうと思います。そう考えた時、今まで団体に対して様々な思いを抱き、そして去っていた人達の顔が浮かんできます。「オウムは誰一人として、人を幸せにはできなかった。」そういう言葉を残してやめた人もいました。ひかりの輪でも同様です。誰一人として幸せになれた人はいないでしょう。不幸にした人達は数知れず存在していましたが。。。

団体の存続は、誰のためになっているのか。それを考え始めた時に全てが崩れ去りました(決意と諦念 http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12190641096.html)。

どれだけ存続に向けて頑張ったところで、上祐氏に何か事が起これば、今のままでは団体は崩壊することでしょう。私が解散を求めなくともいずれは消滅するのは分かってはいます。でも、それまでにどれほどの人をこれからも不幸にしていくのかを考えた時に、居たたまれない気持ちになることと、まだ力のあるうちに未来への一歩を踏み出すことが彼らのためにもなるであろうと考えています。

彼らにとっては押し付けがましい意見でもあろうとは思いますが、一歩踏み出すために、彼らの背中を押してあげることが、彼らに対する恩返しでもあろうと考えます。

一刻も早く解散して、それぞれの道を歩いていけるようお祈りしております。

体験談 中山尚「3.ひかりの輪設立から哲学教室になるまで」

体験談 中山尚「2.分裂騒動からアレフ脱会へ」

 

2007年の6月にひかりの輪は設立されました。「去るものは追わず、来るものは拒まず、そんな『お寺』のような団体にしたい。」などと上祐氏も夢を語っていたし、スタッフもかなりの情熱を注ぎ込んでいたと思います。教義は一元思想と言って、今の三悟心経の元になるような教義を説いていたのですが、体質はオウムのまま温存していたのであらゆるところに綻びが生じていきました。オウム時代では教義的にも「マハームドラー」は通用しても、ひかりの輪では万物感謝なのですから、上祐氏などのパワハラが通用する訳ではありません。次から次へとスタッフは消えていきました(辞めていった人、逃げていった人、追い出された人 http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12195214730.html)。

アレフの時に比べてスタッフの人数は少なくなりましたから、必然的に業務は増えます。当時はまだまだ熱心な会員でもありましたので、大阪支部長からの愚痴などを聞いてもいました。これだけの激務をしているのであれば、スタッフは新規獲得に集中して、会員は会員で結びつきを強くして互いに支えあうような関係性をもって行かねばならないなどと、積極的に横に声をかけていきました。これが私が団体に対して大いに疑問を持ち始める転機となっていきました。

今まで法友として、奉仕活動など頑張っている人達ばかりだと考えていた能天気な私でしたが、団体との関係において非常に深刻な悩みを抱えている人達ばっかりだったのです。一番、ショッキングだったのは団体から公安の立ち入り検査で見られては困るという理由で書類を持たされていた人がいたことです(立ち入り検査と検査忌避 http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12191009010.html)。これには本当に驚きました。社会融和を全面に掲げて設立した団体がアレフと同じことをしているのですから。透明性を確保し裏表のない運営をしていくことによってでしか、社会からの不信感を和らげることはできないと考えていたからです。

他にも色々な面が見えてきました。上述した、家を売って団体に高額のお布施をした人も裏では愚痴を言っていることも多く、決して喜んで差し出した訳でもないということも見えてきました。かつては本当にセミナーは高額でしたので、収入の少ない人達は必死で団体を支えていたのですが、収入は団体に把握されていて「これには参加できるよね?これは受けられるよね?」などと勧誘され断れない人達も多数存在していたということです。

私は、YES、NOはハッキリと言える方だったので、そんなに無理強いされるという記憶はありませんでしたが、私のような人達ばかりであるはずもなく、気の弱い人達などは断りきれない人もいましたし、また会員は参加して当然だという雰囲気の中でかなり無理している人達がいました。また横との繋がりの中でも、少しでも団体に対する愚痴など言おうものなら、すぐに支部長に上げられるという密告社会でもありました。それだけに団体に対する批判や不満が外に出てくることは少なかったのです。

そんな現状を見聞きしていくうちに、会員の声無き声をすくい上げて行かねばならないなどと考えるようになり、積極的に団体批判に取り組んでいくようになっていきました。内部からの改革、自浄能力を身につけること無しに、「21世紀の宗教」どころか、オウムのままのカルトでしかないと思うようにもなってきました。私のスタンスとしては「団体に貢献もするが、物申すこともしっかりとしていく。」という姿勢は取ってきたように思います。団体にとって目障りな存在にあえて身を置いていきました。居心地はかつてのように良いものではありませんでしたが、ある程度の緊張関係で私と団体は距離を持ちつつやってきましたが、辞める数年前には団体の活動にはかなりの惰性になってきてもいました。「17年目の告白」を出してからマスコミなどにも出だし、文化人などもひかりの輪を認めるような発言をしたりもしていましたが、どこかで冷めてみていました。表面上だけを繕って団体の体質は全く変わっているようには思えなかったからです。

 

体験談 中山尚「4.脱会から出入り禁止へ」

体験談 中山尚「2.分裂騒動からアレフ脱会へ」

体験談 中山尚「1.入信から分裂騒動まで」

私のやる気に火がついたのは、主流派と上祐派の分裂騒ぎがあった時からでした。私が上祐派の存在を知り、教団に分裂騒動が起きていると知ったのは、当時の主流派の幹部
から、マイトレーヤ正大師が魔境状態になって、それに感化された人達が勧誘を始めているので、電話などで連絡が入った場合は絶対に出てはいけないからね、などと言われ
たのが始まりでした。

当時は状況が全くつかめずに、何故そのようなことを末端の信徒まで下ろしてくるのかすら不思議でした。そんな大した問題であろうとは考えてもいなかったのです。

確か2005年の秋、大阪支部道場の上祐派における乗っ取り工作が行われました。その時から主流派と上祐派の争いに私は巻き込まれるようになりました。上祐派から大阪
支部道場でマイトレーヤ正大師の勉強会があると聞いたときには、分裂騒動も収まったのだななんて考えてもいたのです。ところが行ってみると、主流派のスタッフがインタ
ホーンに出てきて追い返され、再び家に帰った頃に上祐派から「何時ごろに勉強会に来られますか?」などと言われて、かなり憤慨して結局参加はしませんでした。

その後、その顛末を知らせるとして主流派の方から連絡が入り、大阪駅の近辺で車を止め、そこで師の方から事の顛末の説明を受けました。上祐が暴言を吐いて師の人を罵っていたことなどを教えられたのです。嘘だとは思わなかったが、意図的に上祐を貶めるような物言いに腹が立ち、とことん反発していきました。(大阪秋の陣http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12193659880.html

「我々はずっと世間からは殺人集団扱いされてきた。その我々がよりによって法友を捉まえて魔境扱いするとは一体どういうことか。」などと食ってかかりました。「マスコミだけの情報が信用できないからこそ、私はオウムに入信した。あなた方の言うことだけを信じて客観的な判断などできない。」などと訴えたように思います。「誘われたら行きますよ。」とも断言もしました。その時は上祐派が魅力的というよりは、主流派のやり方に疑問をもっていったという方が正確であったと思います。

その後再び上祐派からの誘いを受け、外で面談を数回繰り返した後に、上祐氏の勉強会に参加しました。どんな内容であったのかは覚えていませんが、やはりそれまでの正悟師の歌を歌うだけの説法よりかは格段にレベルが高くて感動もしました。私の入信のきっかけは事件でしたので、何よりも事件を正面から見据えて、社会融和していこうとする姿勢に魅力を感じ、当然のごとくに上祐派の流れに入っていったのです。

アレフ上祐派の時は本当に私も優等生であったように思います。大阪支部長からも良くして頂けましたし、それに応えるがごとく私もできるだけのことはしてきたように思います。当時は私も家庭問題や経済問題など抱えており本当に辛い時期でもありましたが、心の劇的な変化も体験して、その体験を上祐派の流れに入ったことと結びつけて一層嵌りこんだという感じです。

組織としての矛盾は沢山当時から抱えてましたが、そこにはあまり目を向けませんでした。上祐氏が怒鳴っていても、大阪支部長が部下を人間扱いしていなくても、大変な時期だというのは理解もできていましたし、まだオウムの教義そのものでしたので「マハームドラー」の一言で納得もしていました。とある会員さんが家を売って かなりの高額のお布施をした時に立会人に頼まれましたが、その時もその老人さんの気持ちを考えるよりもそんな大役を頼まれたことに喜びを感じてもいました。今から思い起こしても慙愧の念に堪えません。

この頃は教学的にはオウム真理教の初期本などをやっていました。主流派との信者の獲得合戦も続いており、どちらが「グルの意思」に叶っているのかとか、麻原がどれほど上祐氏を信任していたのかなどと理論付けしては上祐派の正当性を訴えていました。「もし私が日本でのヴァジラヤーナ(金剛乗)に失敗した時には、お前は日本に戻ってマハーヤーナ(大乗)を広げろ。」といって麻原は上祐を守るために送ったのだと説明していました。結局は、麻原の権威を引き継ぐのはどっちなのかという問いで信者を獲得していったのです。そして主流派と決別することが決定的になると、二つのファウンデーションなどと言って「真理の灯明を守るために、主流派か上祐派とちらから潰れてもどちらかが残れば真理は守れる」と言ってアレフとの決別すると信者を導いてきたのです。

そして、2007年の3月に上祐派はアレフを脱会しました。脱会してからか、脱会する前くらいか記憶は定かではありませんが、その頃から観察処分がかかるような団体が二つできても仕方ない」などと言い出し。麻原の教材を強引に破棄するよう言ってきました。

ほんの数ヶ月前までは秘儀瞑想や教本は一生の宝物のように大切にするようにと言っていた元大阪支部長から、今度は教材を破棄してと言って来られるのですからとてもじゃないけど受け入れがたいものがありましたが、上祐氏の脱麻原路線には賛成していましたのでそれほどの摩擦になることはありませんでしたが、上祐氏は観察処分を外すために脱麻原路線をとるという選択をしただけであり、本当に反省してそのことから教訓を得て、そこから導き出される新たなる宗教を創造していくために、脱麻原路線を取ったのではなかったのだと私自身が認めるにはそこから長い年月が必要でした。

振り返るとまんまと上祐派の戦略に騙されたというのが正直な感想です。私の場合、事件後の入信なのでオウム・アレフに騙されたという実感はありません。どちらかといえば、上祐派、ひかりの輪に騙されたという実感の方が大きいのです。おそらくは団体側にも騙したという認識はないでしょう。事件を反省してオウムの教訓を活かして「21世紀の宗教」を創造するという謳い文句に私はすっかりと魅せられてしまいました。「宗教の失敗は宗教で乗り越える」などと、当時の上祐氏は謳っていました。ちょっとしたら、歴史的にも宗教は醜い争いを繰り広げてきましたが、オウムの教訓を活かすことによって、そのような争いに終止符を打つことができるかもしれない。そんな理想を思い描いてしまいました。「21世紀の宗教」という単なるスローガンですが、そのスローガンを信じることによって宗教になりえるのだと今となれば分かりますが、当時の私はすっぽりと嵌りこんでしまいました。

体験談 中山尚「3.ひかりの輪設立から哲学教室になるまで」